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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年11月15日

サロンの思い出ばなしJ

――「中国茶評論家」という肩書き

サロン風景の写真 よく、20年を超えて、サロンを続けることができたと思う。
 私自身のことでいえば、お茶や周辺の物販、そして飲食を出すなどすることなく、サロンだけを収入の糧として、よく続けてくることができたと思う。
 肩書きにしてもそうである。

 研究所にいる時から、外部で講演・講師などを頼まれる時、肩書きやプロフィールなどを求められる。独立してからは、研究所あるいは会社という組織がないので、組織名・役職名などでそれを現すこともできない。
 肩書きをつけずにプロフィールを提出すると、「肩書きは?」と聞かれることになる。

 そんな「肩書き」文化の中で、私たちはいることを再認識するとともに、どうするかと、20数年前ちょっと困った。

「中国茶研究家」とあるカルチャー・スクールで、20年ほど前、付けられたことがあった。私自身、学者のような中国茶の研究者となる気もないし、なれないと思っていた。その思いは、今も変わらず、現在ではその肩書きにしないでよかった、と思っている。
 なぜなら、私は「実践者」としてお茶に関わっていきたい、簡単にいえば、「おいしいお茶の楽しみ手」、「おいしいいれ手」、「お茶を飲んでよかった、と思える、人・雰囲気を含めた時間、空間の創造者」でありたい、と思っている。
 それは、ずっと変わらずに、私と中国茶の関係であることに、近ごろますます、はっきりと自覚するようになってきた。
 だから、なるべく、机上の文献研究だけをイメージさせがちな、「研究者」とは一線を画していたい思いが、今はとても強くなっている。
 お茶は、ごくラフな言い方をすれば、「飲んでいくら」の世界である。「飲むこと」「いれること」の質や感じ方、それを取り巻く人とのあり方に、価値があると思える。

 25年ほど前になるだろうか。
 当時の中国茶友達の一人だった鈴木訓さんが、「オーセボヌール」(当時青山にあった、中華のレストランとして、新基軸を提案し、連日満員で有名店になった)のマネジャーをやっていた時、「ソムリエ」が時代で、もてはやされた時であった。それに対応して、我々「チャムリエ」と言って、よく冗談を言っていた。

 鈴木さんは、そののち独立して、「遊龍」のオーナー・マネジャーになっても、お茶をいれながら、二人でよくそんな冗談を言っていた。彼は、中華の世界に、本格的にワインを取り込んでいった創始者の一人ともいえ、彼は、「ソムリエ」という言葉へのある意味をもっていたし、私も過去知り合いになった「メゾン・デートル」たちが、皆「ソムリエ」としても優秀で、ある種あこがれがあったので、「チャムリエ」という造語は、なかなか気にいっていた。

 そんな「チャムリエ」を、肩書きとして使おうかと、迷った。しかし、20数年前の中国茶を取り巻く環境を含め、それを肩書きとすることには、もう一つ踏み切ることができなかった。
 そのうち、略歴・プロフィールの原稿締切となり、しょうがないので、編集者時代の肩書きづけの技、困った時の「評論家」をつけて、提出した。
 それが、「中国茶評論家」の肩書きの裏話である。

 もちろん、日本で初めての肩書きである。そのうち、誰かが、そう肩書きを名乗って世にでてくるだろう、と予想していたが、未だに見ることはない。
 中国には、「評論家」という言葉もないし、それに代わる概念もないようで、中国でも「中国茶評論家」は存在しない。
 世界で一つの肩書きを、たった一人で、今も使っている。

 日本において「評論家」は、便利な肩書きである。
 非常に広い概念を持つ。というよりは、受け手によって、それぞれの想像の世界の中で、なんとなく漠然と、その世界と「関わりを持った人」くらいのことで、イメージをしてくれる。
 私の場合、それでも「中国茶のどういうことをやられているのですか?」、という質問はよくされるが、「評論家」という肩書きでなければ、もっともっと多くの質問に晒されていたであろう。
 私のやっていることは、もともと説明しにくいし、先人がやってきたことではないので、「中国茶とかかわった仕事」というくらいの解釈をしてくださるのが、とても便利である。

 お茶を売っているわけでもない。かといって、不特定多数の人々に解放された空間で、お茶を飲んでいただくような、「茶館」というわけではない。
 特定された人々がいらっしゃり、お茶を飲んだり、お茶のいれ方を練習したり、といったことを仕事とし、あとは、外部に中国茶のことを、知ってもらったりする講演などが仕事である。
 中国茶に関わる、興味を持つ世の中の人々の数(顧客層の構成数)から想像すれば、そんな内容のことで、仕事として生活をしていけるはずがない。
 まったくの狭い、狭い分野での仕事である。

 そんな背景の中で、仕事としての「中国茶評論家」の肩書きは、「中国茶と関わりのあることをしている人」くらいの想像で、ちょうどよい感じである。
 バクとしてわからない、そこがちょうとよいのである。

 そんなことで、20年間、「中国茶評論家」として、この肩書きを続けてきた。
「中国茶サロン」を今年でやめても、そのあとどのような活動をしていくかは、まだバクとしている状態だ。それでも、外部での活動で、肩書きを求められたら、まだ「中国茶評論家」を、続けていくだろう。

 残念なことがある。
 私が20数年前、「中国茶評論家」と付けた肩書きを、その後だれも使うことがないことである。
 中国茶が、社会的にもより広く裾野を広げていったとしたら、たぶん「中国茶評論家」を肩書きに持つ人は、かなりの数、登場したであろう。
 誰も登場していない、ということは、中国茶の広がりがそれほどなかった、とも言える。
 広がりがなかったかもしれない、ということは、ちょっと寂しいことである。その役割の一端を担っていたと感じている身としては、寂しいことである。

 近い将来、よりたくさんの「中国茶評論家」が登場してくれることを、願っている。

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