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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年11月1日

また、新しいお茶との出会い

――蒙頂茶に、こんなお茶があったのだ。

玉葉長春の茶葉の写真 この20数年。
 常に新しい魅力あるお茶との出会いであった、ともいえる。
 そのことが、ここまで中国茶を続けてくることができた、原動力の一つでもあった。
 何回か書いたが、まだまだ数多い中国茶で飲んでいないお茶があるにしても、そろそろ中国茶もほぼ知り尽くしたかな、と思っている時、あるいは中国茶を取り巻く人間関係が、面倒になり、嫌になった時、そんな時に、魅力あるお茶、魅力ある人が現れて、中国茶への興味を継続させてくれた。

 今年いっぱいで、20年を超えて続けてきた中国茶サロンをやめることにしているのだから、今さら新しい魅力的なお茶との出会いなど必要ない、とも思えるのだが、最後のサロンのためのお茶を用意するために、6月に中国で歩き回っている中で、出会った。
 めっきり、中国の内陸までお茶に出会いにいくようなことはなくなった。でも、年間60種類を超えるお茶を、皆さんに飲んでいただくためには、限られた時間、限定された場所の中で、ある程度は歩き回らなければならない。

 20数年前は、ともかく出会うお茶、出されるお茶が、すべて初めてであり、新鮮であった。それは知識を増やす、体験をすることの楽しさ、喜びでもあった。
 そのうち、ある程度の広さを体験すると、味、香りといった質を求める、あるいはそれに対応したいれる技術を磨くこと、開拓することに、楽しさ、喜びが次第に移っていった。

 教えること、あるいは、一緒に体験することが本格化し、それを何年か続けていくと、そのお茶をどうプレゼンテーションするか、ということが、テーマになっていった。
 私の場合は、中国茶をいれることを教える中で、飲み手に飽きられないためのことを常に考えてきたような気がする。
 中国を含めた茶藝が、教え方も、教わり方もますますつまらない方向で、ますます様式化する中で、日本の茶道などが歩んだように、周辺の芸術性、文化性が、「お茶をいれ、飲む」ことよりも強調される傾向が、どんどん進んでいったし、今もその流れは続いている。

 そのような流れの中で、私が教えることを通して学んだことは、原点である「お茶をいれ、飲む」こと、つまり「おいしくいれ、おいしく飲み、楽しく人に触れる」という時間、空間、その中での努力こそが、全てである、と思うようになった。

 日本の茶道でいえば、利休百首の中にある「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて飲むばかりなり」、あるいは千宗旦がゆきついたとされる、お茶を点てるのに、必要最小限のものだけを残し、排除していった姿に、その象徴を見る。
 あるいは、そんなむずかしいことよりも、もっと単純で、「お茶がまずい」「お茶が魅力的でない」ものであったら、楽しむどころか、どんなに魅力的な風景でも、情景でも、どんなに魅力的な人があったとしても、お茶は存在する意味を持たない。
 お茶がなくったって、風景、情景、そして人は、それだけで魅力的に存在している。

 お茶を標榜するなら、お茶が風景の一部になったり、情景を形づくる一つであったり、人を表現するものであったりしなければならない。その最低条件として、お茶が魅力的である必要がある。簡単にいえば、「まずくはなく」、「おいしいこと」である。
 それは、茶葉の良さを必ずしもささない。
 いくらすばらしい茶葉でも、「まずく」いれることは、簡単である。それは、多くの人が経験していることである。
 逆に、捨てられるようなお茶であっても、「おいしく」いれる、「おいしく」はいるお茶があることも、多くの人は知っているはずだ。

 茶会の話が持ち出されるたびに、いつもそんなことを、繰り返し感じている。
 今年も、茶会のシーズンが来て、否が応でも感じさせられた矢先に、このお茶に感動した。

「玉葉長春」。文献を見ると、「長春玉葉」との表記も見る。
 6月に、上海の四川省のお茶を扱う店で、勧められて買ったものである。
 クラスでの飲む順番待ちをしていて、10月になって飲んだ。

 お茶屋では、このお茶についての詳しい説明を聞くことはできなかった。
 私にとっては、「初めて」の名前に思えた。蒙頂のお茶であるといわれた。
 蒙頂茶は、「蒙頂甘露」「蒙頂毛峰」「蒙頂黄芽」などは、日本でも入手できたり、わりに知られているお茶である。現地に行ってその認識を改めたのは、「蒙頂石花」が、一番ポピュラーに飲まれているお茶であることだった。キレのよいお茶で、「峨眉竹葉青」ほどのキレはないにしても、それに共通する何かがあった。

 現地の一番大きな工場でも、テイスティングをやった。その時、名前を知らないお茶が「蒙頂茶」の一つとして、出されていたのは記憶にあったが、このお茶であったような気もするし、そうでなかったような感じもする。

 調べてみると、確かにこのお茶は、蒙頂茶に、「蒙頂石花」などとならんで、一角を占めている。ふつうだと、ここまで調べないで終わってしまうが、調べなくてはいけないほど、このお茶はおいしかった。
 お出しして、飲んで、質問が必ずくるほどの、評価高いお茶であるからだ。

 茶葉をみると、わりに鋭くはいりそうなお茶である。少し、黄ばむような色が、逆に鈍くはいる感じもする。
 実際にいれてみると、「馥郁」とまではいかないまでも、丸く、柔らかなお茶である。香りも上品に、あまり主張はせずに、それでいて長く残る。何よりも、後味の甘さが、上品に長く残る。それが、このお茶がただものではない証である。

 たぶん、場所が変わり、器が変わるなどすれば、違った様子ではいるのであろうが、強い印象もなく、派手さもないが、長く付きあえるタイプのお茶である。

 まだまだ知らないお茶がある。
 来年からは、こんなお茶との出会いは、あるのだろうか、などと考えさせられた。

(写真:玉葉長春)

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