本文へスキップ

コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年4月15日

サロンの思い出ばなし④

――銀座のフレンチでのサロンは……

サロン風景の写真 銀座のフレンチ・レストランの会議室を会場にして、「中国茶サロン」は続けられた。
「一般に、もっと広くの方に中国茶を」という姿勢で、銀座・歌舞伎座の向かいにあったレストランの会議室に移った。
 研究所の外にサロンを移す時、すぐにこの場所が候補に浮かんだ。日本のギャルソン(メートル・ド・テル)としては、日本でトップクラスの一人・内藤さんとは、それ以前、20年ほどの交友があった。当時は、彼はこの銀座の店も見ながら、自由が丘に自分のレストランを持っていた。

 彼は、日本ではあまり重きをおかれていなかった、いわゆるサーブする人たちが、いかに重要な役割を果たしているかを、教えてくれた。フランスでは、店によっては、シェフよりも強い権限を持つ。
 公務員から、調理師学校に通い、そしてメートルとして、フレンチが華々しく一般化していく時代に、銀座の店から彼の仕事はスタートした。
「鴨のオレンジ煮」が全盛の時代にあって、「鴨のレモン煮」がおいしいことを教えてくれた。そして、未だにそれ以上の味には出会っていない、「ガトー・マルジョレーヌ」を教えてくれたのも、彼である。

 突然、ロンドンに行くと言って、いなくなった。「フレンチなのに、なぜロンドンなのか?」と聞いたら、彼は、「サービスは、イギリスです」、とカッコよく言って、しばらく消えた。
 年代もののカルバドスを抱えて、戻ってきて、六本木のフレンチの開店、そして四ツ谷の「ミクニ」の開店、五反田の「ヌキテパ」、大橋の「ル・シャン・ド・ピエール」と、当時話題のフレンチ・レストランのシーンに、彼はいた。

 銀座の会場は、「中国茶をフレンチ・レストランで」という、中国らしい雰囲気で、という常識を破ることで、お茶はどこでも楽しめることを、広がりを体験してもらいたかった。
 私は、研究所と、のちには別の会社と、銀座のサロンとの掛け持ちなので、教えるメンバーに、内藤さん、そしてアシスタントの村上さんにも、加わってもらうようにした。

『家庭画報』の特集で、フレンチと中国茶のマリアージュ、という企画が実現できたのも、ここでのサロンがあったからだ。
 その企画の中から、シャンパン風の中国茶を作ることも、生まれてきた。氷で、低温抽出しながら、濃い濃縮液を作り、それをペリエで割ることで、ほとんどシャンパンのような飲み物にすることもやった。

 たぶん、これらのことは、中国はもとより、中国茶の世界では初めてのことであったと思う。たまたま「中国茶」なのであって、「お茶」は世界中で楽しまれている。常に、中国茶は広いお茶の一部であることを、努めて意識するようにした。

 研究所当時からそうであったが、日本茶を中国茶風の茶器でいれて飲むことなど、頻繁にやっていた。同じように、ダージリンをはじめとする、いわゆる紅茶を、中国茶で用いる茶器を使っていれることも、よく行なった。
 そうすることで、お茶は、ふつうに出すのと違った味、香りをだし、それが別の魅力、おいしさとして、存在することを知ってもらいたかった。

 逆のことも行なった。
 ヨーロッパや日本で、古くから使われているお茶をいれる道具を使って、中国茶をいれることである。
 代表的には、「ピューター(錫。正確には錫合金であるが)」の器を使って、中国茶をいれることを始めた。これも、また、新しいおいしさの発見につながった。

 今では、常識のように使われたり、行われたりしていることが、この時にスタートしていたのである。
 それは、ともすれば型を強調して形式化していこうとする、10年ほどの歴史を迎えた「茶藝」の広まりに対する、抵抗でもあった。
 形式に、既成の概念にとらわれず、お茶をおいしくいれ、飲み、楽しむ、ということを、知ってもらいたいという、思いがそこにはあった。

 幸い、研究所からこの銀座のサロンに至るまで、ずっと「おいしいお茶」「よいお茶」は、中国大陸からだけではなく、台湾からも、途切れることなく、届き続けた。
 話題や物語のあるお茶も、届いていた。
 この銀座のサロンでは、暮れのパーティの時には、何年も続けて、「大紅袍」4本の茶木のお茶をおしげもなく飲んでいた。約60g〜80gくらいを、いっぺんで飲んでしまっていた。  ささやかな、既成の偶像に近いものへの抵抗でもあった。

 この頃は、皆さんとも一緒に、よく中国へ、台湾へ旅行に行っていた。
 旅行先は、思い出すだけでも、杭州はもとより、主な目的とした場所をあげると、雅安、成都、武夷山、桐木、安溪、廈門、鳳凰山、香港、広州、英徳、徑山寺、天目山、黄山(猴坑を含む)、祁門、奉化、紹興、余姚、瀘州、青島、嶗山、台北、クアラルンプール(キャメロンハイランドへも)などなど。
 あげてみると、団体の旅行としては、けっこういろいろなところに行った。お茶に関係ない場所も含まれているが、そこには、お酒や食べ物などを求めて行った。それぞれが、皆さんの思い出に残る旅行だったことが、今でも話しを聞くと、よくわかる。
 ふつうの旅行者では、行けないところも多く、ほとんどの準備が、旅行社ではどうにもならず、自前で行なった。結構大変であった。

(つづく)

続・鳴小小一碗茶 目次一覧へ