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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年7月1日

味、作品の向こうに人がいる

――「顔が見える」「心を感じる」ことの永遠

有田、伊万里、唐津の器の写真「連れて行って」と頼まれて、どうしても断りきれないお世話になっているので、9人の方々と、有田、伊万里、唐津の窯元などをまわった。
 唐津・隆太窯では、中里太亀さん、伊万里・龍仙窯では、市川龍仙さん、有田・佳秀窯では、西山正さん、清六窯では、中村恵美子さんらが、迎えてくれた。
 皆さん、同行の初めての方々に、それぞれの魅力で、対応してくれた。素人にいやな顔もせず、丁寧に説明もしてくださった。

 そんな話を横で聞き、展示してある作品を眺めながら、こんなことを思った。
 いつも魅力的に感じている作品は、ふつうに置かれていても魅力的であるが、それぞれの作り手の人に会い、「こんな方が作っているのだ」と感じ、お話しや振る舞いを聞き、見しながら、つくり手たちの人となりを感じると、器は別の生命を持つ。魅力を持つ。
 もちろん、作品だけでのすばらしさはあるが、それに作り手の個性、魅力を感じると、一層身近なものとなり、ずっとそばにいてほしくなる。

 私の過去もそうだったし、今回ご一緒した一人一人も、また同じような感覚をもって、作品にふれていたように思える。

 清六窯の亡くなった白磁の名人・中村清六さんは、晩年こんなことを言っていた。
今、使って欲しい、自分の器を知ってほしい、と思う作品は、「飯碗」である。
 大きな美しいフォルムの鉢、壷など、数限りない賞をとったロクロの大作ではなく、ご飯を食べる器である。

「手のひらにのせてみてください。両手で持ってみてください。なじみでいくでしょう。そして碗の端が唇に触れることがあれば、何かよい感じが感じられます。
 ご飯を食べてみてください。一生、これで毎日ご飯を食べることが、おいしく、時々幸せに感じられるはずです」。

 名人の作品で、この飯碗は、デパートの売り場でも見ることがあった。美しいフォルムの碗である。
 しかし、80歳をゆうに超えた時にご本人から聞いたこの話で、清六さんの作品は、別の生命をもって、私に触れてくるようになった。本当に小柄な方で、しかし握手する握力は強く、でも柔らかな手だった。

 似た話、感覚を思い出した。
 京都、大阪で感じる「板前割烹」の魅力である。
 古くは、京都「千花」の先代のご主人である。
 当時20歳代前半であった私には、別世界のようであった。まだレストランで食事する経験も少なく、その魅力も説明できない感覚で、このカウンターを挟んだ作り手と食べ手の世界の魅力にとりつかれた。
 料理のおいしさはもちろんである。しかし、あまり話しをすることもないご主人のしぐさや気配に、鬼気迫るようなものを感じながら、それ全体が料理であった。

 今、年に何度か、京都「つか本」、大阪「もめん」に通うのも、この40年前に感じた感覚を、それぞれのご主人の味、カウンターを挟んだご主人たちの振る舞いや会話の魅力で、ふたたび呼び戻されたからである。
 料理のおいしさだけではない、ご主人を含めて、その店の味、魅力なのである。
 ご主人の所作、お話がなければ、いくらおいしい料理でも、しだいに足が遠のいていたかもしれない。

 先日「もめん」で、ご主人の木綿さんが、こんなことを言っていたのを思いだした。
 以前に英字紙の方が来て、料理を食べ、紹介記事を書いたことがあったという。この文化を、その方は、「counter communication」と、洒落て書いたという。
 カウンターを挟んだ主人と、その料理と、食べ手の世界。

 茶藝で、所作だけの美しさから感じる「空虚」さ。
 きれいに、あるいは趣向をこらして作られた茶室、テーブルで感じる、「むなしさ」。
 それは、ある時は「流れるような美しい所作」だけであったり、「高価で美しい道具」だけであったり、「美しく、魅力的に見えるが、しばらくすると飽きてしまう空間」だけであったりする。

 何が足りないかは、魅力ある作り手が、器の向こう、料理の向こうに見える。感じる器、あるいは、カウンターのこちらと向こうのアウンの空間、時間。板前割烹、陶磁器が教えてくれる。

 ある時は、いれ手は飲み手のことを忘れている。自分のことで精一杯だ。
 飲み手のことは忘れていなくても、自分の価値を押し付けている。いったん出されたお茶の評価は、いれ手の思いを超えて、飲み手が評価するものである。ひとりよがりのお茶、空間。
 などなど、いれ手の至らなさがすべてであるが、その状況に気づくことを、だれも教えてくれないし、指摘してもくれない。

 教えられるものでないかもしれない。
 今の中国茶のお茶をいれる世界は、「人畜無害」。無難というおいしさ、美しさをゴールにしているようにみえる。
 飲み手が感じる「魅力」とは、そうではない。極端に、おいしく美しいか、極端に、醜くくあるいは奇異で、一瞬まずい、あるいはエッと感じるか、そのどちらも、飲み手には理解しやすい魅力である。

 それに至る道は、まず基本にお茶が「おいしい」こと。
 そして、その向こうに「よい人」「また会いたくなる人」「魅力ある人」が見えることである。
 そういう人になる努力をすることを、お茶を教える側も教えるべきであるし、教わる方も気づくべきである。

「おいしい」と思うお茶の向こうに、いれ手の何か、個性、魅力、良さ、人間を感じたら、それは「一生付き合いたくなるお茶」、「また飲みたいお茶」になるのだが……。

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