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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年12月1日

「味」を「聞く」

――永く記憶に残る「おいしいお茶」は、「聞く」

サロン風景の写真「香り」を「聞く」の間違いだろう、と言いたい人も多いだろう。慣用的には、「香りを聞く」という使い方であって、「味を聞く」という使い方はないと思う。

 先日、京都の割烹で、ご主人と話をしていて、意気投合したのが、この使い方である。
「味」を「聞く」。

 もちろん、香道などで使われる「香り」を「聞く」を模した使い方である。  意気投合したのは、記憶に長く残る、最上、最高と思われる「味」は、けっして派手なものではない、ということ。
 むしろ、通り過ぎる感じがするくらいの味である。食べる方が、味を探り、追っていかないと、味は応え、感じることができないほどのものである、ということだ。

 インパクトのある、食べた瞬間に、飛び上るほど「おいしい」というものはある。しかし、なぜか、長く記憶を支配する力はないものが多い。

 料理を作る側は、ある水準になると、「新しい味」を創作する意欲にかられる人が多い。探求が毎日続く。
 その一方で、いつまでも「もう一度食べたい」と評価される、定番の、ある場合は伝統的なおいしさのものも作ることを目指している。

 この料理の二つの方向は、まさに、料理における「不易流行」と言ってもよいかもしれない。永遠のものと、一時心を奪われるもの。
 しかし、この二つの方向を、バランスをとり、両方ともに「おいしい結果」を残す料理人は、本当に限られた人しかいないような気がする。アイドルと同じように、多くは時間とともに表舞台から消えていく。
 それだけ、むずかしいことなのだろう。

 当然、新しい料理を日夜追い求める心理は、本人の飽くなき探求心であり、料理人に不可欠なことである。そして、その中から「永遠」、あるいは「定番」と呼ばれる「傑作」が生まれ、それが「不易」となることも事実である。

 しかし、その「不易」となるものの多くは、決して「派手な」料理でないことが多いように思える。食べた瞬間は、とても「驚く」料理ではないことが多いような気がする。
 今まで、こんな料理がなぜ存在しなかったのが不思議なくらい、自然で、違和感なく、無理なく味わえる料理であることが多い。
もし、「驚き」があるとすれば、「うーん、こう料理したか」という尊敬を込めた驚きである。

 一世を風靡する「名手」がいる。しかし、その将来を約束されたように思える人が、静かに消え去ることも多い。
 決して「新しい料理」を開拓することを、怠った結果ではない。むしろ、その人たちの多くは、研究熱心で、自分にも厳しく、食べ手の「おいしい」という評価を得るために、「飽きられること」への恐れから、人知れない努力を続ける人である。
 慢心、傲慢な料理人は、論外である。
 でも、「飽きられない」努力、「探求する」努力を続けた結果、食べ手から「飽きられる」という、矛盾を抱えた結果で、消えていく人も多い。

 理由は何なのかを考えると、多くの場合、こうではないかと思える。
 食べ手は、いつも新鮮な、新しい、体験したことのない、あるいは体験を超える「おいしさ」を求めながら、ある場合は「力強い」、ある場合は「派手な」、印象に強く残る料理を求めている。
 しかし、それに応えようとするあまり、瞬間、強く「おいしい」と感じる料理は、忘れられること、あるいは飽きられることが多い。
 食べた瞬間の反応は、「おいしい!」という強い賛美、賛辞だか、それだけを繰り返し、「不易」あるいは「伝統」あるいは「定番」となるものを、見失っていく。

「不易」と「流行」を、バランスよく追いかけながら、新しいチャレンジを続けていくこと、それは、本当にむずかしいことだ。

 そこで、最初の京都の割烹主人との、「味」を「聞く」話に戻る。
 料理が、食べ手に受けいれられる「不易流行」について、それとからめて考える。

 私が、中国茶をいれ、人に飲んでいただいた反応、そして私のいれるお茶への飲み手の支持が継続するかどうか、それらをスライドさせて考えると、次のようなことに思いあたる。

 たとえば、20年近く私のサロンに「お茶を飲む」だけに通い続けてくださっている方がいる。
 その方に、一番印象に残るお茶は何かと聞くと、一番印象に残りにくい、「味」も「香り」もほとんどしない、感じにくいお茶をあげる。
 そのお茶を飲んで、すでに15年以上の時間がたつが、今でもその評価は変わらない。

 そして、私自身にとっても、そのお茶がなかったら、今日までお茶をいれ続けることはしていなかったろうと思えるほど、私にとっても、一番印象に残るお茶である。

 そのお茶は、地味なお茶である。華やかなお茶ではない。しかし、「無理がない」お茶である。言い方を変えると、存在が「自然」である。

「水色」は限りなくお湯に近い。薄い。
「香り」は茶葉の状態では、ほとんど感じることはない。
 お湯をいれても、あまりしない。
 口にふくんでも、ほとんどしない。
 そして、飲み終わってからしばらくすると、淡く、清らかな香りが戻ってくる。

「味」も薄い。淡い。極端にいうと「しない」に近い。
 初めてそのお茶を口にいれた時、お湯かと思ったくらいである。
 しかし、飲んでしばらくすると、口の中に清らかで上品なお茶の味が生まれてくる。

 料理もそうだと主人は言う。
「味」を「聞きにいく」というような料理、それこそが、「永遠の印象」に残る料理への入口にいる、とも言う。
 味を感じるという受動的なものより、自分から一歩踏み出して、「聞き」にいったのち、それに応える、静かで、確かな「おいしさ」が訪れる料理こそ、「最上」の料理の一つだと言う。

 お茶も同じだと思う。
「味」を「聞きにいく」くらいのお茶。
 飲んだときは、無理なく口に入る。その瞬間はほとんど味を感じない。
 そののち静かに、清らかに、味が口の中に作り上げられていく。
 そんな感触のお茶が、永遠を約束されるスタートに立つ。
 自然に、作為なく、無理がなく……。

 永遠の評価を約束されるお茶。
 それは、まさに「味」を「聞く」ようなお茶のような気がする。
 次にいつ会えるのだろうか……。

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