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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年9月15日

「茶藝」。教え方も進化した。(下)

――「おいしくいれる」達人へ。教える道が見えたかも

サロン風景の写真 閃いた、「極めるお茶」をいれる達人への道筋とは……。

 私は、自分がお茶をいれる「達人」だと思ったことは、一度もない。本当に一度もない。
 人は、私のいれるお茶を飲んで、ほぼ「おいしい」と言ってくれる。ありがたいことだと、いつも思う一方で、どうしてお茶がおいしくはいっているのか、そのメカニズムがわからない。
 中には、「工藤さんのお茶ですね」と言って、他の方がいれるお茶との違いを指摘してくれる人すらいる。どうして、他の人のいれるお茶と違うのか、それがどうしてそうはいるのかが、自分ではわからない。

 それで人にお茶をいれることを教えているのか、と言われそうだが、それはできる。
 なぜできるかと言えば、その人らしく「おいしいお茶」をいれることは、基本のいろいろの技術力を教え、習得してもらい、それに加えて自分の魅力あるところ、例えば、「やさしい」とか「清らかな心がある」とか、「おいしいと感じる力にすぐれている」とか、「自然の美しさに感動する心を持っている」など、その人らしさを、基本の技術に加えていくことによって、お茶はその人らしく魅力的に「おいしく」はいるようになる。
 これは、たくさんの人たちを教えながら、その人たちが、おいしい「いれ手」になっていく経験から、私が習得した「おいしい」お茶、「魅力ある」お茶をいれるための教え方である。

 お茶をいれる「基本技術」の中には、その人らしい個性ある所作(動き)もある。
 茶葉の入った器へのお湯の注ぎ方の何十パターンによって、お茶が違う味にはいる、といったこともある。
 いれる器の形、材質、大きさによって、お茶のはいり方、味が違ってくる、といったこともある。
 細かくいえば、「茶海」(「公道杯」。お茶の濃さを均一にするために、いったんお茶をこの器に出し、それを各人の「茶杯」に注ぎわける道具)から、茶杯へ注ぐお茶の動きを変えることで、お茶の表情を変えることができる。などなど、それらが基本の技術となってくる。

 それらは、巷で言われる「軟水」だから「硬水」だからはいり方が違う、といったことを超え、どんな水でも、水準以上のお茶をいれることがほぼできることも発見することになる。
 飛び抜けて良質の茶葉でなくても、普通のお茶でも、十分に「おいしい」「楽しめる」お茶にいれることができるようになる。

 以前から言っているように、お茶が「おいしい」と感じると、人は「よい茶葉ですね」、と茶葉の良さをほめる。これはいたし方がないと思えるのは、おいしくお茶をいれる「いれ手」が、いかにも少ないためである。
 いて手の腕ではなく、茶葉の質で、お茶の「おいしさ」を評価する習慣がついてしまった。

 お茶の「おいしさ」は、三要素で決まる。
「茶葉」、「いれる人の腕」、そして一番大切なのは「飲み手の、飲んだお茶を評価する力」である。どんなおいしくはいったお茶でも、それを評価してもらえなければ、ただのお茶である。
「評価する力」というが、むずかしいことではない。「おいしい」と感動できる力である。ほとんどの人が持っているものだ。

 そして、私が「おいしくいれる達人養成」への道筋で、「閃いた」ものとは……。
 それは、一言でいうと「自然」ということである。
 別の言い方をすると、「なにもしない」、「なすがまま」ということだ。
 何を言っているのか、わかりにくいだろう。

 半年ほど前、お茶をいれるクラスの中の、一番上級の人を教えながら考えた。
「いったい私のいれ方と、彼ら、彼女ら、世間的にはおいしいお茶のいれ手になった人たちのいれ方と、どこに違いがあるのか」。
教えながら、漠然と考えた。
 このクラスの人たちになると、もうあまり細かく教えなくても、いれている本人たちが、自分が今いれていたお茶がどんなものか、評価ができるようになっている。教えなくても、自分でわかる。だから教える方は、眺めているようなもので、暇ができる。
 
 観察していると、蓋碗の中での「茶葉の動き」、お湯を注いだあとの「茶葉のあり様」が違うことに気付いた。
 上級者の基本技術の中には、お湯の注ぎ方の変化を覚えることが、大きなウエイトを占めている。
その技術の熟達度を超えたところで、例えば、「茶葉が気持ちよく動いている」、あるいはお湯を注ぎ終わった時の「茶葉のあり様が美しい。絵になっている」といった、極めて主観的なことを読み取れるか、感じ取れるか、そしてそのようなあり様になっているのかが、「ほかの人とは違う」、「この人のお茶がまた飲みたい」と言われる、「何度飲んでもアキがこない」、「おいしいお茶」になっていく。そのことがわかった。

 それに、その人らしい所作が加わった時、あたかも「天上の雲の上で、言葉も必要なく、ただお茶を飲み、悠久の時を過ごしている」ような感じになれる。
 去りがたい、またそのような時間、そのようなお茶を共有したい、そんな感じになってくる。
 そこに「力」、「押しつけ」、「無理」などはどこにもない。
「主張」は感じられないが、思い出すとしっかり、その時間とお茶の「おいしさ」が蘇ってくる。

 そのようなお茶をいれられるようになることを「教える」方策とは、前に書いたように「自然」ということに尽きる。
 お湯を注ぐ、その時の茶葉の状態は、茶葉が望むようにも思えるお湯の動きになっているのか。つまり、茶葉に対し、無理な状態のお湯の注ぎ方になっていないか。
 そして、蓋碗から茶海へお湯が動くとき、同じように「無理がない」ようにお湯(お茶)は動いているだろうか。茶海から茶杯へお湯が動くとき、「無理がない」同じような状態で動いているだろうか。
 このことを感じ取ることは、それ以前の教えられた細かな技術や考え方、対し方などが、確実に身についてからでないと、どうやらできないということもその後のレッスンを通してわかった。

 このような状態で入れられたお茶は、ほぼ清々しく」、「雑味が少ない」状態で、普遍的に「おいしい」と感じてもらえるお茶にはいる。
 技巧を超えた、恣意を超えた、表現力を超えた、「自然さ」「無為」「おまかせ」の中で、実現できるように思えたのである。

 あとは、この技術に裏打ちされた感覚、感性を、ケーススタディを重ねる中で、感じ取り、あるいは振る舞い、対応し、身についていくことで、より達人に近づいていく。この6か月ほどのトライアルの中で、しだいに確信になってきた。

 教えていての手応えは、十分ある。
「いれかたの達人」を育て上げることが、できるような気がしてきた。

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