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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年1月1日

「一碗」に思いをのせて

――台北で復活したスープに、幸せを感じた

一碗の写真 いつ頃からか、「新年」という、改まった感じがしなくなったろうか。
 私の場合、会社・組織に属していたことから、「自営業」という職業区分に変わって、「改まる」感じなど、どこかへ行ってしまった。
 会社・組織に属していた頃は、否が応でも年末には「仕事納め」があり、年始には「仕事始め」があった。その間は休みであったから、年末そして新年の切り替わる実感があった。
 が、今は、自分で自分に言い聞かせないと、新年が改まる感覚はない。とくにここ数年は、仕事が押せ押せで、事務所の大掃除すらできない状態で、なおさらである。
 どうやって溜まっている仕事を減らすか、当然、年末からお正月は「仕事」に明け暮れて、終わってしまう。 年末年始と世間は言っていても、私はまさに「日常」である。

 昔は、よく一年の目標を年賀状に書いたり、年始に発表させられたりした。ここ数年は、目標らしきものを設定しても、残る人生を考えるとどうみても時間切れで未完成、未到達が見え見えなので、長期目標になるものは設定すらしない。
 その代わり、一年くらい先までの短期的にやること、やらなければならないことは、「せっかち」といわれるくらい、手回しよく準備しないと不安がつきまとう。以前とは変わった。

 でも、考え続けるテーマらしきものはある。
 ずっと20年以上持ち続けているテーマであって、未だに答えは見つからない。

「人はなぜお茶を飲むのだろうか。飲み続けるのだろうか」。
 他人にとっては、どちらかというとどうでもよい、答えを出せたとしても役に立つのかどうかもわからないテーマである。

 日本を憂うというわけでもないが、しだいに精神的に住みにくい国になってきそうで、すっきりしない気持ちの中で、それを忘れさせる、久しぶりにエキサイティングな食事にいくつも出会うことができた。クリスマス直前に行った台湾でのことである。

 いつものことながら、冬茶を取りに行った。最短の2泊3日の中で、「風の如く」というと格好は良いが、ドタバタと駆け抜けて帰ってくる。ビジネス出張もここまではないほどの、訪問先16箇所の旅である。
 私の心を明るく、充実した気持ちにさせてくれ、幸せにしてくれた、いくつかのエキサイティングな食事の中で、一番のことを紹介しておこう。

 話は、15年ほど前にさかのぼる。
 台北の北投は、温泉で有名なところだが、そこに古くからの知り合いの窯元・蔡曉芳さんのおうちがある。そこに行った帰り、お昼をお世辞にもきれいとはいえない、たたきの床もデコボコで、机も落ち着きなく揺れる、けれども抜群の味、力のある料理の店があった。

 夫婦二人で切り盛りする、客家料理の店であった。蔡さんとよく行った。
 スープが抜群で、おなかがいっぱいになっても、まだそのスープを飲みたくて飲んでしまい、席から立った瞬間に尋常ではないおなかの膨らみに、自分でもびっくりしたことが何度もあった。
 鍋に残ったスープは、ビニール袋に入れてもらい、蔡さんがぶる下げて帰る姿は、とても陶芸の台湾第一人者には見えなかった。

 突然、店を閉めた。蔡さんに聞いたら、ご主人がマレーシアで交通事故にあい、半身不随になってしまったのが理由だった。娘さんが、修行をして、そのうち店を再開する、と言ってもう10年ほどたってしまっていた。

 昨年春、蔡さんから、「娘さんが店を開いた」と聞いた。そして年末に、期待と不安を持って、その店に予約をいれた。
 MRTの駅から6〜7分ほど歩き、道の確認の電話を入れながら行ったせいで、娘さんのご主人が店の前で待っていてくれた。待っていなかったら、たぶん通り過ぎていただろう。
 看板はない。人一人がやっと通れる細さの急な階段を2階まで上がった。そこには、おしゃれに改装をほどこされた、落ち着いた空間があった。

 昼と夜に一組ずつ、一卓10人までのレストランである。「私房菜」、プライベイトキッチンである。娘さんも、笑顔で迎えてくれた。
 料理は抜群であった。スープはお父さんの味とはまったく同じではないが、お父さんの片鱗を感じさせ、それがほどよく彼女らしさととけあって、やさしかった。
「飲むことができない」飢餓の期間が長かったせいか、おいしさが一層身体にしみこんでいった。正真正銘、あのご主人が作った味に連なるものである。

 聞けば、身体が自由にならない身で、娘さんに何年にもわたって駄目だしをして、彼のレシピ、技を伝授したそうである。

 スープは、不思議な飲み物である。中華を問わず、和洋いろいろのスープの類は、心を癒し、おなかを満たし、充実感、満足感を与えてくれる。

 お茶も、スープと同じような側面を持つような気がする。
「どうしてお茶を飲み続けているのか。いれ続けているのか」。
 このテーマの答えは、まだ出ない。
 でも、「おいしい」とその時だけの幸せを感じた声が聞きたいから、私はお茶をいれているのかもしれない。

 小さな「一碗」のお茶。今年も、その時、その時に思いをのせて、いれ続けることになる。

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