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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2013年11月1日

「誤表示」「偽装」はなくならない

――「おいしさ」を、他人評価に頼るのでは無理なのでは

サロン風景の写真 大阪のホテルのレストランで、メニューの「誤表示」か「偽装」かが話題になっている。どちらにしても、使っているもの、あるいは料理法と違っていることが表示されていたことは事実で、そのことじたいが問題であることは、異論を挟む余地はない。

 なぜ起きるのか。
 世間で、あるいはマスコミで言われていることに加えて、別の視点を私はもっている。
 このようなことは、「ブランド」に、あるいは「メッセージ」に、ある価値や安心などを消費者がもつ限り、レストランメニューだけではなく、売る側と買う側が存在する限り、なくならない、ということだ。
たとえ、一時的になくなっても、また形を変えて生まれてくる。

 だから、「騙される方がいけない」と言っているわけではない。やってはいけないことだし、当然ながら社会的制裁を受けるべきである。
 でも、なくなりはしない。人が、「ブランド」や「名声」や「金額」などに価値を見るかぎり、なくならない。欲がある限り、なくならない。

 中国茶をやっていて、そのような偽装のようなことは、よくあることである。先ほどから言うように、だから良いというわけではない。やってはいけないことである。

 20年近く前、中国の人たちと付き合いが多くなり始めて、最初に感じたことの一つに、彼らの買い物行動に、ある特徴があることに気づいた。
 まず、「ニセモノ」と思ってから行動することである。
材質を確かめる。あるいは、縦のものを横にしたり、触ったり、いろいろなことをして、ホンモノかどうかを確認する行動をとる。ある場合は、店員と会話する中で、それがホンモノかどうかを感じとろうとする。

 日本人はどちらかというと、「信頼する」という行動からスタートする。だから、それが裏切られた時の、「騙された」という反動は一層大きい。
 中国のすべての人ではないだろうが、「疑い」からスタートして、結果「騙された」とすると、「私が見抜けなかった。負けた」と感じ、そこで諦めることも多いような気がした。

 どちらが私の好みかといえば、日本人的「信頼」のスタートの方がなんとなく性にあっている。生きていく中に無理がない。

 中国茶をやっていて、日本人が「ブランド」「名声」などの助力を得て、「信頼」からスタートさせることは、ふつうにある。
 だから、中国茶を飲んでいただく時、その中国茶の「良さ」を説明する場合に、非常にわかってもらいやすいのは、「茶名」でも、「味、香りの良さ」でもない。「金額」を提示することが何にもまして説得力がある。
 本意ではないが、簡単に時間もかけずにわかってもらえるので、そうすることも結構ある。

 飲まれる方は、聞けば「お茶の味、香りのおいしさが一番大切」と、中国茶の価値についてはそう言う。が、実際には、それよりも「金額」の高さが一番そのお茶の価値になってしまうことが多い。

 いつも感じ、言うことだが、中国茶を飲んで、「おいしい」と自信をもって言える人は結構少ない。別の言い方をすると、他人に「おいしいね」と同調を求めることが多いし、ある場合は、「権威」とか「マスコミ」が「おいしい」と言っているから「おいしい」みたいな言い方もする。

 メニューなどの「誤表示」あるいは「偽装」問題を防ぐ方法があるとすると、書かれているものがブランド肉とか、高級食材でも、食べて「まずいものはまずい」という、日本の食の環境下では勇気にも似た、「自分のおいしさへの自信や確信」のようなものを、多くの人が持つことである。
 値段ではない。ブランドでもない。高級といわれるものでもない。もっというと、有名と評価される料理人でもない。「星」を取った店でもない。要するに、他者の評価ではなく、自分の「感じ」「感覚」で、評価することである。
 こう書くと難しそうだが、そうではない。「食べて」「飲んで」、感じたままに思う、言うことである。人がなんと言おうが、この「食欲」の領域は、「自分は自分」である。

 こう説明すると、人はわかった、という。
 でも、そうはならない。日本では特にそうはならない。
「食欲」も、「欲」という字がつくように、個人の基本的感性で、奔放であっていいはずであり、個人あるいは家庭などの小さな集団で完結してもよいものである。
 なのに、それが商品、経済的活動の一部になった時には、他人との価値の共有という、社会的、集団的生活に不可欠の「調和」を要求されるようになる。社会、集団で生きるための「安心」「安定」の方を、人はとるようになる。

「おいしさ」において、「xxさんがおいしいと言っていた」、「テレビで……」、「星がついて……」とか、他人の評価で行動することは、これからもなくならない。だから、「誤表示」であれ、「偽装」であれ、このようなことはなくならない。
 もし、「誤表示」だの「偽装」だのから自分を守ろうとするなら、「自分の感性を第一義にする」以外ない。そういう人が多数になることである。
 そうすれば、送り手、売り手は、自分の本当の実力で勝負する、あるいは本当によいと思うものを中心にすえ、送り出さざるをえなくなる。
しかし、「自分の価値」に従って行動したり表現することは、「おいしさ」という「価値」を、時として他人とは共有にしくいことを、自覚していなければならないことになる。
 他人には理解してもらえない、「寂しさ」を感じることになる場面もある。
 解きにくい矛盾が、そこにはあるような気がする。
 だからこそ、「おいしい」という価値を心から共有できたとき、無上の喜びにもなる。

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