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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2013年10月1日

旅は、予定外のことに会うためにするのか

――偶然に近い「感激・感動」が、永遠の自分史となる

ポルトの風景の写真「ああ 旅にしあれば 今 神無月…」。
 たしか「ああ大和にしあらましかば 今 神無月」という詩があった。それを勝手に変えて、覚えていた。だから文法的にも、おかしいのではないだろうか。いつの頃、アレンジしたのかも覚えていない。小学生だったか、中学生だったか。
 時に思い出す。そして、今そんな風景、心情である。
 
 10月である。この原稿を書いているのは9月の終わりだが、トランジットで一泊した、遅い夏休みのパリは、ちょうど今そんな感じ。移動した先、ポルトガルのポルトは、まだ夏を感じさせる。でも、朝、晩は秋が近いことを確実に教えてくれている。

 仕事の旅が多い中、完全にプライベイトな旅をすると、いろいろなことに出くわす。たいていが予想外のこと、失敗することが多いし、思い出にはそちらの方が残る。
 この数年は、飛行機の予約が早くできるようになり、11か月ほど前から安い料金で予約が可能になった。
 安く旅をしなければならないと決まっていると、早く予約をしなければならず、前の旅が終わると、もう来年の計画を立てなければならないことになってしまう。
 行き先もほぼ決め、宿泊先の手配も半年以上前には終わり、すべて準備したつもりになっている。

 万全の計画の旅のはずだが、旅はそうはいかない。
 今回も、羽田で飛行機に乗る直前に、パリ郊外のシャンティイで、泊まるはずの期待していたホテルからメールが入り、オーバーブックしたので、別のホテルを用意するので何とかそちらに泊まれないか、という。
「判断もできないから、ともかく朝着いたらすぐにそちらに行くから、事情を説明して…」とメールして、飛行機に乗った。

 情報をいつでも、どこでも受け渡しできることになった。便利さと安心を与えてくれると同時に、「不安」を抱えたまま12時間近くを飛行機の中で過ごすことになる。
 結局、この一日で、二軒のホテルを渡り歩くことになり、長い一日となった。仕事をした感じである。

 そんな悪いことばかりではない。
 ポルトのホテルで、旅の二日目の夕食をとった。ドウロ川を挟んだ旧市街の町並みに、明かりがともり始める。きれいな風景を眺めながらである。屋外のテーブルから河口の方角に見える夕焼けは、しばらくぶりの感動であった。
 あまり風景に感動する方ではない私だが、感動ものだった。
 古い町並みの茶色を基調にした風景の向こうの空に、横に薄くいく筋にも延びた雲が、紅といっても、赤みをおびた薄い紅色から深紅に徐々に変化していく。
 暗くなっていく。その色の変化は、薄い雲で演出されて、横の縞模様が美しく変化していく。まるで万華鏡のような世界。色気すら感じた。

 こんな記述をしても、その光景を見ない人には、無縁である。伝えたいと思うが伝えきれない。そのもどかしさ、非力さを感じながらも、感動したものは伝えずにはいられない。

「おいしいお茶」を飲んだ話を伝えようとしても、伝えきれないことにも共通する。同じである。おいしい食べ物の話もそうである。
 どうしたら伝わるのか、どうしたら感じてもらえるのか…。それは、体験を同じ空間、同じ時間の中で享受しない限り、どこまでいっても無理なことなのであろうか。

 だからなお、その感動を一緒に体験できることに「喜び」があり、「幸せ」がある。
 そして、一緒に「おいしい」という感動を共有できることが、どれほどの「幸せ」であるか。
 お茶の場合、いくつもの偶然が重なることが必要である。
 値段の高さではなく、おいしいお茶。おいしくいれることができたこと。飲む者、いれる者が、同じ場に居合わせること。そして、同じ感激を、同じく感じあえたこと。

 その感動は、多くの場合、以前どこかであったようなこととして思うことが多い。あるいは、約束されていたかと、感じることもある。本当は初めてのことなのに、まるで自分の計画の中であったように思えるのはなぜなのだろうか。

 その時、その感動は、一緒にいる人との心地よい思い出となり、歴史になる。
 消えることのない、記憶の奥に閉じ込められた、永遠の快楽として。

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