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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」最終回report

2018年12月20日

連載コラムの筆を置く

――「小さな一碗のお茶」がもたらすもの

佐平次の写真 いよいよ筆を置く時がきた。
 置かなければならないことは、とうの昔に決めていた。私の社会的な役割を、終えなければならない、と思っているからだ。
 どんなことでもそうだが、いつまでも過去の人間が牽引するようなことは、よくない。組織でも、事象でも、未来に向け、継続していくためには、次の時代の人たちが、任され、牽引を始めることである。
 そして、バトンを渡した人は、少し端の方で、こじんまりと、自分と周りの限られた人だけで、小さく小さく生きるべきである。

 そういうつもりで、2年前、「XiangLe中国茶サロン」を閉めた。
 しかし、「私たちを見捨てるのか!」とまで言われ、運営が可能な人数を考えて、3年間の限定をつけて、少し考え方を変えて、続けてきた。それも2年が過ぎようとしている。

 先月、70歳になり、「シルバーパス」をもらいに行った。健康保険の「高齢受給者証」も送られてきた。もう間違いなく、老人である。
 活動は、お約束があるから、あと一年と思っている。
 徐々にフェイド・アウトしていくのがよい。人知れず、気がついたらいなくなっていた、くらいが理想である。
 そのためにも、このコラムも、止めることにする。
 コラムだけではなく、社会的に広く、情報発信することも、徐々にやめようと思う。

 思えば、1996年に『中国茶 雑学ノート』を書いたのが、外の世界に向けて、文字にして情報発信をした、最初である。まだ、個人が、ネットワークを通して、情報発信をする時代ではなかった。
 それ以来、何冊もの本を出したが、読者に距離が近い本は、この本が一番だと思う。情報としての間違いや稚拙さはあるものの、「中国茶への思いや熱さ」は、読者に一番近かった。
 これも結果である。他の本も書くたびに、「読者に近く」を思って、いつも企画してきた。発信されたものは、その価値を決めるのは、読者である。

 同じようなことは、「中国茶は、私にとって?」という、よく受ける質問である。中国茶の魅力や価値、意味のようなことを問われている。
 翻って「私自身にとって?」という質問を、今、中国茶との社会的なつながりを終息に向かわせている私にぶつけてみる。
 
 以前だったら、無理矢理にでも、質問された人に、その意味や意義を説明していたと思う。それは、中国茶を仕事にしていたから、なおさらであった。
 今は、「飽きることなく、好きだから」と答えるだけである。

 ここでも、歳をとったと思う。
 色々な人の中国茶との関わりを見てきた。感じ取ってきた。その数は、数えきれない。
 今、やっとそれらを整理して、関わり方や意味づけを説明することができるようになったとも思う。
 が、同時に、それを説明しても、あるいは意義づけても、その人にとって、あまり意味がない、と感じるようにもなった。

 人それぞれの人生がある。しかも、時の流れの中で、その人生も変わっていく。
 中国茶を、仕事にする人もいる。
 趣味にする人もいる。
 その中でも、茶藝で表現をするのが、好きな人もいる。友や家族と飲むのが楽しい人もいる。一人でいれ、飲むのが好きな人もいる。
 生活の一部に、水を飲むのと同じように、中国茶がある人もいる。

 それぞれの人生があり、それぞれの中国茶がある。
 しかも、固定的にとどまっていることはない。社会が変化し、生活が変化し、生きている環境は常に変わっていく、流れていく。家族とのあり様、友とのあり様、会社とのあり様、社会とのあり様は、ずっと変わらないことはない。必ず変わっていく。
 それに沿って、中国茶との付き合いを、思いとは反対の方向で、やめなくてはならない人もいる。
 
 そんな多様性の中で、他人の中国茶とのあり様を、絶対のものとして説明することはあまり意味がない。参考例としては、示せても、結局は自分で見つけるか、結果、自分の意思とは関係なく、どうなっているかが、その人にとっての、その時の中国茶との関係であり、意味、意義である。

 要するに、あまり「中国茶の意味や意義」など考えないことである。
 好きだったら、とことん付き合うのもよし、なんとなく付き合うのもよし、嫌だったら離れればよいだけのことである。

 どんな時、状況、環境にも、融通無礙に対応してくれる可能性があるのが、中国茶なのかもしれない。
 種類の多様性がそれを支えているのかもしれないし、芸術性や文化性などを持たせようとすると、その対応も可能である。そして、経済性を持たせることも可能であり、空気や家族や絆のように、意識を超えて存在することも可能である。

 私の場合は、周囲が中国茶との関わりを断たせてくれなかったこともある。
 気づいた時、そして今、筆を置こうとした時も、中国茶は私といる。
 人にとっても、そのあり様は、千差万別であってよい。それが、無理がなくて、心地よい。それは、他を認めることが大切であることを教えてくれる。「共に」ということの気持ちよさを、教えてくれる。

「小さな小さな一碗のお茶」。
 そこに、私がいる。私の世界がある。人と私との繋がりがある。
 曼荼羅に描かれているものが、どのような宇宙観かは知らない。が、何気なく広がりのある世界を示しているような気がする。
 それと同じように、この「小さな一碗」は、無限の広がりや可能性を示している。
「在る」、「存在する」ということの大切さと、そこからあらゆる可能性が存在すること教えてくれている。

 筆を置くことは、社会的な広がりの一部を、放棄することになる。
 しかし、私にとっては、これからが私の新たな状況が作り上げられていくことを、意味するような気もする。
 そして、気づいた時に、また中国茶がそばにあること、「小さな小さな一碗のお茶」が、そこにあるような気がする。
 まるで、大切な人が、素敵なものが、そばにあることを願うように。

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