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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年12月1日

総まとめ・中国茶と私と D

――お茶に会い、生涯の人に会う。


 先週、台北にいた。
 もう30年近くになる、毎年の冬茶ピックアップである。
 九壺堂の・さんに会い、いつものお茶舗を回り、昔のことを思い出していた。
 木柵鉄観音の名人だった張約旦さんのところに行くのも、いつもの行事であった。99歳で逝ってから、もう10年以上がたった。彼の最晩年の十数年を、知ることになった。
 私のために作ってくれた鉄観音を超えるお茶に、それ以来出会うことは未だにない。橘子(みかんの花)の香りをつけて作ってくれた鉄観音も、それ以来話にすらのぼることはない。
 
 台北に行くようになった頃、台湾のお茶の歴史、お茶の状況をいつも教えてくれた上園茶荘の林さんに、しばらく振りに会おうと思って、電話をしてみたが、「もう使われていない」という返答だった。
 それでも納得できず、店を訪ねてみたが、理髪店かマッサージ店のようなものに変わっていた。

 私が台湾でお世話になった人たちと、もう会う機会がない、そんなことがこれからも多くなっていくだろう。
 九壺堂の・さんのところに行ったら、アメリカのシアトルで、ティールームを開業するというチームが来ていた。プロモーションビデオを作るために、・さんをインタビューしていた。
 突然振られて、「なぜ、そんなに長く、この九壺堂に来ているのか?」という質問を受けた。

 何度も書いたが、中国茶に出会ったのは、香港である。もう40年近い前になる。
 香港激安ツアーが発売になったころで、当時ホテル付きで25,000円を切るものも出た時代だった。
 それをきっかけに、香港に年に何度か、中華料理を食べに行った。広東料理、飲茶、北京料理、上海料理、四川料理、と滞在する中で、次第に回る店も決まってきた。
 そこで出されるお茶は、日本人と見るとジャスミン茶だったが、周囲は全てプーアル茶であった。そのプーアル茶こそが、私の中国茶を開花させた。

 その興味をもっと拡大させたのが、台湾の高山烏龍茶であった。凍頂烏龍茶から、高山烏龍茶の登場、拡大への入り口にあった。
 最初にその実力に驚かされたのが、九壺堂のお茶であった。
 偶然である。台北の出版社の社長さんから、お土産にいただいたものであった。そのすごさに、驚き、九壺堂の・さんを訪ねることになった。
 確かに、シアトルの人の質問にあるように、もう30年近くも長く通っているのは、なぜか? もちろん、九壺堂のお茶が、いつも魅力を維持しながら、一方では新しい発見、体験を提供し続けてくれたことは確かだ。
 でも、それだけだろうか?

 私の中国茶との関わりは、趣味としての時代から、プロというか、それで生計を立てていく時代に変わった時がある。
 そのきっかけとなったのは、オムロンの生活文化の研究所・ヒューマンルネッサンス研究所の成田社長からの誘いがあった。生活の中でのお茶を研究したい、日本のお茶のルーツをたどりたい、というものだった。
 そこで、以前に香港で会った時、いつでも杭州に来なさいと言ってくれた人に会いに行った。中国国際茶文化研究会の創始者・初代会長の王家揚さんである。

 日本の高度化した社会、生活の中で、「お茶を飲んでホッとする」「癒される」などといったお茶の存在を、そのルーツ、役割などを勉強したい。その力添えをしてほしい、と申し出た。
 彼の答えを今でも覚えている。
「その質問は、今の中国には、必要がないかもしれない。しかし、20年後の中国には、同じ質問が必要になっていると思う。その時のために、一緒に研究しましょう。できることがあれば、何でも協力します」、というものだった。

 20年後。中国で、お茶の生活における役割について、その答えを模索している人はいるだろうか? でも、王家揚さんが、言ったとおり、中国社会は、その問いを発する時が訪れていると思うのだが。
 王さんが始点となって、幅広い人たちと出会うことになった。
 中でも、姚国坤さんは、いつも力になってくれた。

 そして、何よりも、中国語を話す能力をついに持たなかった私を、これらの人々とコーディネイトしてくれた兪向紅さん、ご主人の張亦文さん、台湾での李俊徳さん。彼らとの出会いがなければ、私は、中国茶との関係を継続することはできなかった。

 このような人との出会いこそ、私が、趣味としての中国茶、そしてその中国茶を生計の中心にすえて関わりを持ち、継続してくることができた、まさに要である。
 お茶との出会いは、もちろんである。これらの人を通して、魅力的なお茶が、継続して現れてきた。訪れてきた。
 そして、何よりも、人との出会い、人と一緒に過ごす時間の楽しさを教えてくれた。一人でお茶を飲む時も、孤独ではないことをお茶は感じさせてくれる。思い出す事象、風景がある。思い出す人がいる。
 たとえ過去形になっても、思ってみると、すぐ近くにある。そして、いる。

 これが、台北で・勲華さんに会いに、30年通う理由である。
 そうシアトルのクルーに説明したが、わかってもらえたであろうか。 

SUMIIの写真 私が時間さえあれば通いたいレストランを、「いっぴん」として紹介する、第6弾。
 残り少ない回で、ここはあげておかなければならない。
 京都「大善」である。嵐山、渡月橋から歩いて数分のところにある。
 このところ、評価はまたまた上昇である。「鯖寿し」が看板であるが、それだけではない。「小鯛笹ずし」「九条ねぎ細巻き」「壬生菜細巻き」「穴子押し寿司」などなど、どれも思い出すだけでヨダレが出る。
 私が、今予約して必ず食べるのは、「バラ寿司」。全国的に呼び名は違うが、「ちらし寿司」である。生のネタも含め、10数種類のネタが重ね合って、ぎっしり器に入っている。それだけ多様な味、触感のものが、入っていながら、一つにまとまり、ハーモニーをなす、絶品である。
 値段は高いし、予約する面倒さはあるが、これは「満足」を保証する。
 独立して、円町の駅から歩いたところに開いた店は、昔の京都の街場のお寿司屋さん、そのものだった。たたきに、テーブル。出てくるお寿司は、鉢や皿に綺麗に、ブロック積みのように盛られていた。気軽に安く食べられた。
 今、嵐山に移っても、その面影は残っている。ここのお寿司を食べずして、京都のお寿司を語るなかれ。ちょっと褒めすぎか。でもその価値はある。
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