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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年11月15日

総まとめ・中国茶と私と C

――「中国茶の魅力は?」。問いに答える


「中国茶の魅力は?」とよく聞かれた。
 と過去形で書いているのは、相対的に、中国茶に対する世の中の興味が減っていると思える。今は、ごく稀に聞かれるくらいだ。
 過去、うまくその魅力を説明できないできたし、今もそうである。

 この「総まとめ」を書き始めて、改めて考えてみて、この質問にも、今の私なりにまとめる必要があると考えた。

 この質問の答えは、人それぞれに違うことは、もちろんである。中国茶への関わり方は、人それぞれに違うからである。

 総まとめ@で、中国茶に関わる分野を、8つに分けて整理してみたが、それぞれの領域でも違うであろうし、その中でも人それぞれで違って当然である。
 でも、そのスタンスが大きな違いを生むのは、最終目的が、経済的な利益を求める活動か、それを求めず、趣味の領域、あるいは取り巻く世界で活動していくかで違ってくる。

 外部からの評価、その中には「名声」であるとか「資格」を持つなどを積極的に外部に働きかけ、求める活動は、この2つの活動領域の中で、利益を求める活動に少し傾斜していると思える。

「中国茶の魅力は?」という問いかけは、「なぜ中国茶なのか?」という問いかけに、置き換えて考えることができる。

 中国茶は、生産においては、農業に分類されるし、茶館などは飲食業に属する。それぞれに、「なぜ中国茶か?」ということを置き換えてみれば、共通するのは、生計を支えるため、あるいはその活動によって利益を得るために、中国茶を軸として選択したことによる。

 関わる個人によって、色々の経緯や考えがあるにしても、その領域で共通するのは、「利益をあげなくては存続できない」、ということである。
 だから、「中国茶との関わり」が存続できるか否かは、「利益」があげられるかどうかであり、それができなければ、再投資はおろか、存続が難しく、廃業なり、関わりを中止することしかなくなる。

 ひと時代前、中国の改革開放経済による、会社や企業設立の自由化によって、農業従事者の中で、茶業に転業する人が増えた時代があった。それの背景には、プーアル茶のブームがあったり、茶葉が野菜より高価格で販売できる、といったことがあった。
 これは中国に限らず、その過程で、成功者と失敗者を生む。利益を継続的にあげるために、新商品の開発や販路の拡大といったことに一様に努力はするが、全員が成功者とはなれない。
 あるいは、一時的にヒット商品を生んでも、それが継続的に消費者に支持され続けることが可能だとは限らない。

 台湾のお茶の生産の1980年代からの歴史は、それを現している。「凍頂烏龍茶」のマーケッティング上の成功は、生産の拡大によって、一部の質の低下を生み、それと同時に新しいお茶の開発が実を結び、消費者は「高山烏龍茶」に傾斜して行った。
 その高山烏龍茶は、今度は、茶畑の高度をマーケティグ上の武器に、新しい畑の開拓、新商品への開発、というかたちで利益を切り開いていったし、その活動は、今も終わってはいない。
「新佳陽」といった新しい茶畑が登場し、今では20年以上前にもてはやされた「梅山」といった名前を聞くこともない。
 つねに、スクラップ&ビルドの中で、定番商品が一握り残っていく。

 一方、利益を追求しないでよい、趣味の領域の分野でも、「サロネーゼ」で呼ばれる人たちの活動は、規模が小さい活動であれば自己負担の額も、適当に収まりがつくものであるが、評判になればなるほど、規模が大きくなり、活動が広くなり、利益を求めなければ、活動を維持できなくなることも多くある。
 そうすると、個人の趣味の活動として表面上は見えても、それを継続するためには、実は、ある種の利益追求型の活動となっていく。
「中国茶」を標榜しての活動であるので、たとえ「中国茶」が利益をあげることができなくとも、「中国茶」を外すことができなくなる。会社経営と同じセンスが要求されるようになる。

 純粋に、個人の趣味として中国茶と関わる人は、「中国茶が好き」や「茶藝が魅力的」みたいな関わり方で、スタートする。中国茶に、それぞれの魅力を見て、関わり始める。
 しかし、離れていく人も多くいる。
 その魅力を、継続的に感じることができなくなるからだ。
 利益追求型と違って、「中国茶との関わり」は、その魅力を感じなくなった時、あるいはそれにまさる魅力を感じるものが登場した時、あるいは個人的な事情や感情の変化によって、簡単に捨て、離れていくことができる。
 中国茶への新しい魅力が継続的に起きたり、新しい刺激があることが、継続の条件になってくる。

 それらの背景、環境を意識しながら、私にとっての「中国茶の魅力は?」。
 一言で言えば、「おいしい」からである。それに尽きる。
 説明してきた領域を、私は40年近く歩んできた。最初は、趣味の領域として、そして途中は、趣味から仕事として、そしてここ20年以上は、仕事として、中国茶と関わってきた。
 中国茶との関係が続いてきた。
 それを支えていたものは、「おいしいお茶を飲むこと」「おいしくお茶をいれること」であったように思える。

 中国茶との関わり方の大きな2つの領域。それに共通しての「継続」は、「おいしい」というキーワードに尽きるのかもしれない。
 作り手は「おいしい」を追求する努力、売り手は「おいしい」を売る努力、いれ手は「おいしく」いれる努力、飲み手は「おいしく」を評価する努力、教育する人は「おいしい」を中心に据えた教育する努力。それが完成できれば、中国茶との関わりは継続する。魅力も継続する。

 私の思う「中国茶の魅力」、「中国茶との関わり」も、極まるところ、この一言であったし、これからもあると思う。 

SUMIIの写真 私が時間さえあれば通いたいレストランを、「いっぴん」として紹介する、第5弾。
 今回は、中華である。今年の2月15日のこのコーナーで、「クエの清蒸」でご紹介した、和歌山に店を構えた「SUMII」である。
 もとにいた大阪「空心」の時代から、大澤シェフの二番手として、頭角を現していた。
 昨年独立して、郷里・和歌山に店をもった。機会あるたびに、私は和歌山の彼の店に通う。
「空心」時代からの流れで、四川を得意なように見えるが、私は炭井シェフが作る、地元の食材を使った何か、がおいしいと思うし、一番彼の腕が発揮できていると思う。
 そこには、師・空心の大澤シェフも若き日に持っていた、力の中華が彼の中にもあると思う。
 外見的には、育ちの良いか、弱さを感じさせながら、作る料理は、力にあふれたものである。彼の並みではない、発想力や構成力などの技を感じさせる。
 力ある中華のシェフたちに共通する、20代後半から30代前半で、光かがやく料理を、今、彼は出してくれる。
 関西に行かれたら、ちょっと遠回りしてでも、行く価値はある。
 https://chinois-sumii.gorp.jp

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