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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年10月1日

総まとめ・中国茶と私と @

――「おいしい」いれ手、表現できる飲み手が必要


 この連載を再再開して、2年目の終わりが目前になってきた。
 今年いっぱいで、連載を終了しようと、決断した。
「リタイア宣言」は、ずいぶん前にしたつもりだった。これは、「中国茶」に関わる私なりの情報発信を、縮小、休止することである。

 私が、25年を超えてやってきた仕事は、社会的な仕事の分野でいくと、何にあたるのか。
 名刺の肩書きや、講演などのプロフィールにある肩書きは、「中国茶評論家」である。
 この肩書き、中国茶を仕事にし始めた時にはなかった。肩書きなどなくてもよいが、書作物や講演する時に、肩書きを求められるので、こうした。

 それ以来、この肩書きを名乗っている人に出会うことはない。ずっとこの職業は、私、一人だったかもしれない。要するに、この肩書きでは、仕事として、成り立たない、ということの表れでもある。30年近く使っていて、ちょっと寂しい気がする。
 
 そこで、整理してみた。中国茶の周辺に、どのような仕事の領域が存在するか。
 以下に列挙してみる。

 ・お茶を作る仕事。農業に区分されるかと思う。
 ・流通にかかわる仕事。問屋機能であったり、仲買のようなことであったり、茶舗もこの中に分類される。
 ・新しい領域の仕事もある。飲料メーカーや、茶葉ないし茶抽出物などを使った加工製造業がある。カテキン抽出物を作るといった化学メーカーもある。
 ・お茶を飲ませる場、茶館や喫茶店的な仕事もある。
 ・教育的な分野の仕事もある。「教える」ということだが、日本の家元制度にあるような、資格ビジネス的な領域も登場した。
 ・研究の分野もある。農業から文化、歴史の研究まで、学術研究的な分野も存在する。
 ・少し広い捉え方で、芸術の分野もある。茶器の制作などから、詩文、書などもある。
 ・広報的な役割の領域もある。評論家の仕事も、この中に入るだろう。

 日本においては、大量に茶葉を輸入する商社のような領域か、それを飲料として作り、大量販売する、飲料メーカーくらいが、ある程度の利益を生む領域である。

 個人レベルの茶舗や茶館、個人での茶葉輸入業などなど、消えていった人たちを多くみている。続いている場合でも、「中国茶」以外の仕事とからめて、なんとか生きながらえているのが、実情である。

 以前、趣味から、中国茶を生計の中心にもってこようとした時、まわりの有能な経営者たちすべてから、「やめておけ」と言われた。
 ともかく、反対も聞かずに、聞けば格好はよいが、「趣味を仕事にした」。
 しかし、生計の中心におくようなお金は、どうやって生まれてくるのか、わからなかった。過去のビジネスモデルもなかった。

 そして今、中国茶の利益が出ている以外のほとんどの領域において、大きな利益を生まない、つまり産業として育っていない状況がある。
 いくつもの理由があると思うが、中国茶に興味をもっても、それを何十年にもわたって継続するような消費者が、あるいは「好き者」が、縮小こそすれ、拡大していないのが、一番大きな理由である。

 中国茶に関わる仕事を、隆盛させていくことはできないのか。
 結論を急ぎ、中間の分析をすべて省いていうと、「お茶の原点」の継続、拡大が鍵だと思う。
 つまり「おいしいお茶」を、「飲む」人あるいは「いれる」人を増やすことである。
 言葉は、適切ではないかもしれないが、おいしいと感じない中国茶を飲んでも、人は離れていく。そこそこの茶葉でも、おいしくいれることのできる人を増やすことである。
 
 精神性、道具、しつらえ、などに人は、価値を感じやすいが、それらは時代によって変動したり、持てるものと持てないものの格差を生んだりする。永遠性があるように見えるが、芸術性などの周辺だけは残るが、そこにお茶をいれる人、飲む人は永遠ではない。

 私の25年を超えるサロン、クラスに通い続けてくださっている人たちがいる。東京だけではなく、大阪にもいる。私の仕事を支えてくれた人たちである。
 その人たちを見ると、「ただ目的なく」、といえるように、「ただお茶を飲んで」、帰っていく人たちが、結局は長く、長く、続いて通ってくださっている。
 その場で私が、25年を超えて続けてきたことは、その人たちのために、「おいしいお茶」を見つけること、出会うことへの努力と、「まずくなくお茶をいれること」だったような気がする。

 お茶は、嗜好品である。好きな人もいれば、嫌いな人もいる。そんな人たちの中で、お茶は、構えずに、自然に、日常にある飲み物である。そして、ハレの日に飲む特別なものもある一方で、日常の一息としての存在にもなる。
 なにより、「また飲みたくなる」ような「お茶をいれる」人を育てること。同時に、「おいしい。また飲みたい」といえる人を育てること。それが、今、日本における中国茶を考える時、必要なことではないだろうか。「いれ手」あるいは「飲み手」を育てることである。

 この視点で、中国茶の教育の領域に携わっている人は、どれだけいるであろうか。 

ヴェンティトレの写真 今、私が時間さえあれば通いたいレストランを「いっぴん」として紹介しておく、第2弾である。
 中国茶と関係ない、食べ物、レストラン情報が、なぜ登場するかといえば、私の「おいしい」の源は、食にあり、その中に「中国茶」があるからだ。

 今回は、イタリア料理の「飛んでいきたい」レストランである。
 近くにあったら、週に一度は通いたい。
 行くたびに、同じようなメニューを食べるが、前回よりも、どこかに魅力を感じて帰ってくる。その刺激は、強くはないが、やんわりと、身体に、脳に効いてくる。
「ヴェンティトレ」。正式名称は、「La Cucina Ventitre」。
 ホームページがないので、函館市の情報ページのアドレスを載せておく。
 https://www.hakobura.jp/db/db-food/2009/11/la-cucina-ventitre.html
 夜のコースも、裏切られたことはない。が、圧巻は、昼の「パスタランチ」の前菜である。楕円形の少し大きめのプレートに、溢れるほどの前菜が、所狭しどころか、折り重なって盛りつけられている。季節を追いながら、いつも十数種類は盛られている。
 以前は、これだけでも残したくなる分量に感じたが、この頃は、一品一品がきちっと料理されていて、変化にもとみ、思わず全部食べてしまう。
 前菜に続く、その日のパスタも、つるりと食べてしまう。デザートも、別腹ではなく、真剣に食べてしまう。
 住宅街の奥まったところにある。昔の平屋の家を改築して、素敵で落ちつける佇まいになっている。おいしい風貌になってきたシェフと素敵なマダムが、また楽しい。

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