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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年7月15日

慢性「時差ぼけ」の中で思うことは

――加齢と体内時計と旅と中国茶


 一週間ほど海外に行っていた。
 ここ20年、とくに会社組織から離れて15年近く、「仕事」をしていても、一人で全てをこなしているせいか、日常と仕事との境がない状態が続いている。
 拘束されている時間以外でも、いつも仕事のことから気持ちが離れることはない。時間的にも、気持ち的にも、仕事に支配されているのが、ずっと続いていた。
 仕事に一区切りをつけた今も、それを引きずっている。
 
 仕事がら、とくにそうである。日常の「趣味」や「生活文化」の一片を仕事にしているのだから、人の生きている環境や人そのものに、触れることや感じることが、また仕事である、と思うし、それがなければいけない、とも思い続けていた。

 海外に行く時も、それがついて回る。
時差が大きいところに行くと、その時差に慣れるために、4、5日はかかり、戻ってから時差がとれるまでに、この頃では1か月近くもかかるようになってきた。

 歳をとると眠る時間が減る、と言われている。年寄りから、「朝早く目が覚める」と聞くのは、ずっと昔からあった。
 仕事での日常は、クラスなどがあると、終わっての片付けなどをやって、帰って寝るのが遅い時間になり、睡眠時間が3時間、4時間の日が続く。それに年寄りの熟睡型ではない浅い睡眠が拍車をかける。
 その寝不足を解消するために、早く帰宅した日にとりもどそうと、早く寝る日がある。熟睡10時間などすると、次の日は、夜中に目覚めてしまうなど、睡眠の不規則状態が続くことになる。

 言ってみると、このところ何年もずっと「時差ボケ」状態が続いている。
 そこにもってきて、本当の「時差ボケ」が重なると、もう体内時計は、わが身体の時計をどの時間で動かしてよいのかわからない状態のようになっている。それをどう表現してよいかわからないが、明らかに、めちゃくちゃな「時差ボケ」状態を、今回海外から帰った今、実感している。

 肉体的というよりも、精神的に不快な状態が続くわけで、その辛さは、手を打つ手段のない辛さである。こんなことなら、遠い海外など何がおもしろくて行くのか、旅するのかを、考えてしまうことも、加齢とともに増えてきた。

「人はなぜ旅をするのか」。
 先人の識者たちは、いろいろな説明を試みてきた。が、そのどれもが私にはあまり説得力を感じさせるものではなかった。
 私の場合は、そんな理由づけを持たず、感じることなく旅をしてきたような気がする。

 仕事に一区切りをつけ、プライベイトの部分が増えたと思える旅でも、なお一層目的を持たない旅である。
 昔から、いわゆる「観光」には興味があまりない。だからガイドブックは、ほとんど見ないでもよい。ほとんど観光スポットには行かない。

 興味があるのは、そこで何を食べるか、何を飲むか。このところ、その傾向がなお強まっている。
 おいしいものはないか。おいしい店はどこか。おいしい飲み物はないか。どこで買うのがよいか。だんだん、旅の目的がそこに特化してきた。

 日本国内でもそうだが、酒蔵を尋ねるのは、その物がどのような空気のところで作られるかを、感じるためである。
 製造工程は、あまり興味がない。というか、聞いても覚えられない。だから、そこに行くこと、いることに興味があるだけだ。

 しばらく前に、酒精強化ワインに興味を持った。
 最初、マディラ(ポルトガル)に行った。そして、マルサラ(イタリア)に行った。次にヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(スペイン)に行った。そして、ポルト(ポルトガル)に行った。
 当時は、あまりその意味づけも考えなかったが、今になって思うと、その作られる工程を知るということよりも、そのワイナリーの樽の並んでいる仕組みを見ることよりも、そしてその規模などを見ることよりも、そのある場所の空気を感じたり、色を感じたり、人を感じたり、といった、あまり説明できるようなものではないことに、触れることに、満足を得たような気がする。

 その延長で、私の今の旅はある。
 以前は、現地でなければ買えないワインなどを買うことに、喜びを持っていた。
 今は、ワインの買う場合でも、その地区の都市にあるワインショップのおじさんやおばさんに、
「あなたが一番好きな地元のおいしいワインは、どれか?」ということで、買い求めるようになってきた。
 ハズレない「おじさん」や「おばさん」を見分けることに、努力するようになった。

 それは、昔は「茶畑に行かなくては」と思った時期もあった。が、いつからか、おいしい、あるいは自分の好みのお茶を教えてくれる、見つけてくれるお茶舗の主人を見つけることに努力するようになったのと、同じような気がする。

 観光もしない、目的も持たない、私の海外旅行。
 今、明日にでも行きたい、したい海外旅行は、二つある。
 ビルバオ(スペイン)に、昼、夜、バルでピンチョスを食べながら、チャコリを飲みに行く。
もう一つは、プラハ に、昼、夜、クラフトビールを飲みに行く。おつまみには、ロースト・アーモンドとソーセージ、あるいはハンバーガーを。

 時差ボケに苦しみながらも、私を旅にかきたてるのは、特化してきている。
食べて、飲むことに。しかもミシュラン星つきには、興味がないし、誰にも気を使うことなく、そこのおいしい物、おいしい飲み物を、楽しむ、幸せを感じる。そこにある。
 中国茶を捨てない私も、この延長にあるような気もする。

かつお節ボテトチップスの写真 今回の「いっぴん」は、外見がかわいらしい小型の「最中」である。
 北九州市にある「梅園」の「河豚最中」の一口サイズ「ふぐっ子」だ。お気に入りである。
 梅園を知ったのは、瓶詰めの「うに」をいただいた時だ。
 数年前、小倉に行った時、魚町の店の前を通って、寄ってみた。その時、目に入ったのが、この最中である。そのサイズも、小さいのが良い。少しユーモラスな外観も魅力的である。
 お茶請けを必要としないお茶を飲んでいると、というよりも、お茶請けの甘さや存在感で、お茶の味、香りがわからなくなることを嫌い続けている私にとって、もってこいのお茶請けである。
 こだわって、お茶請けを出すことは、頑なにしなかった。今もほとんどそうだが、出す時には、魅力あるものにしたい。おいしいものにしたい、と思っている。
 最中は、好物の一つである。
 京都東山五条の「山もと」の最中は、とくに好きだ。
 そんな私の好物、お茶請けに、見た瞬間にひらめいたのが、この一口サイズの「ふぐっ子」である。おいしい。お茶請けのサイズとしては、ピッタリである。
 餡は、甘すぎず、しっかり甘い。餡が薄いのは、好まない。はみ出すくらいに入っているが、邪魔にはならない量である。ほど良い。
 お店のオンラインショップでも、取り寄せできる。

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