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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年4月15日

「お茶と私たちの自然な関係」が理想

――恒例の体調不良の中で、思ったこと


 久しぶりに、絶不調の体調で、出張していた。
 毎年といっていいほど、4月からゴールデンウィークにかけて、体調を崩す。春の季節が良い時期は、私にとっては、たいてい「ゴホゴホ」とやっていたり、頻繁にトイレに駆け込んでいたり、いつかは肺炎で入院していたこともあった。
ちょうど中国で、「明前」のお茶が話題になるころ、私の体調は崩れる。
 
 そして、ここ数年。
 寝込むまでにはいかないが、かなり自分では、「ダメ」な状態になると、思うことがある。
 仕事を含め、対外的活動をしていると、無理をしてでも続けなければならないことが多くなる。そうすると、いっそう快復が遅くなる。
 やはり、次の切れ目でスッパリやめなければ、と頭をよぎる。その準備は、もう始めなければならない。

 四半世紀も前、「お茶の健康への効能」を、ことあるたびに聞かされた。雑誌や本にも、そのコラムが必ずといってよいほど登場した。
 中国各地でもそうだったし、日本でもそうだった。
 福建省・安溪の大きな工場で、といっても当時、工場は一つだった気がするが、数字をあげて、説明を受けたこともあった。
 細かな数字は、当然忘れてしまったが、こんなものだったような気がする。
 
 この工場には、数千人の人間が働いています。この地域では、家庭でも仕事場でも、皆、ひんぱんにお茶を飲んでいます。飲むお茶は、ここで作られている安溪鉄観音です。
 この工場ができて数十年になりますが、ずっと勤務している人も多く、従業員の中で、一人もガンで死んだ人は出ていません。それは、安溪鉄観音がガンの予防になっている、ということを裏付けることです。

 ちょっと乱暴な論法だが、自分たちのお茶に対する愛情は、よくわかる。
 そんな質問、「お茶の健康への効果は?」。
 その頃から、私の答えは、決まっていた。
「効果は、あるともいえず、ないともいえません。どちらかといえば、大きな期待をしない方がよいのではないでしょうか」。
 医師でもない私が、専門的に語れる資格などないし、してはいけない、と思っている。

 唐の時代、あるいはそれ以前から、中国では、お茶は薬として考えられてきた。喫茶としてその重心を移し始めるのは、唐代くらいと思ってよいかと思う。だから、中国医学の表現である「本草」の中で、説明され、扱われてきている。
 喫茶に重心を移してもからも、本草の大著が編纂される時、「茶」は薬として扱われている。

 でも、「健康に効くか?」と聞かれたら、私の答えは消極的な対応である。
 当時、例を引き合いに出して、答えることも多かった。たとえば、
「プーアル茶が痩せる、と言われます。香港人もそう言います。痩せるとまで言わなくとも、脂を流し出す、とよく言ってますし、聞きもします。
 香港人は、プーアル茶を常飲しています。レストランだけでなく、日常、家庭でもプーアル茶を飲んでいます。もし、痩せることが本当だとしたら、香港には太った人は、いない、といえなくとも、極端に少ないはずです。
 香港の街を歩いていると、太っている人がけっこう多いのが目につきます。

 でも、効いている人もいるのかもしれません。
 中国医学で昔からいわれているように、「証」によって人のタイプを分けています。ある薬は、こちらの証には効かない、とされるものも、けっこうあります。
 だからプーアル茶も、効く人と効かない人と両方がいるのかもしれません。

 仮に効くとして、いつも思うのですが、とくにダイエット情報には、情報として欠落している部分があります。
 例えば、プーアル茶は、一日、何リットル飲むと、効果を発揮してくれるのでしょうか。
 どのくらいの摂取量、それが示される必要があると思います。
 もし、一日に数リットルも飲まなければ効果がないとすると、ひょっとしたら水をその量飲んでも、痩せるかもしれません。水でお腹がいっぱいで、食事量が減って、それで、痩せる可能性もあります。」

 答えにならない、答えである。こうやって「お茶を濁していた」。
「健康に効く」と期待するなら、それはあまり過度な期待をしない方がよい。抹茶なら、直接たくさんとれて、などは、薬の過度の摂取と同じで、リスクも生じることをわかっていて欲しい。

 お茶は、「飲みたくなる」ものである。「そこにあって欲しい」ものである。
 身体がなぜか欲し、心がなぜか欲し、飲んで満たされるものである。
 たとえ欲しくない時でも、期待しない時でも、出されて飲んで、満たされることに気づく時は、喜びは数倍になる時もある。
 そのくらい、意味を、存在を主張しない、あるいは意味を持たせない、そのくらいの方が、長持ちする、飽きない「お茶との付き合い」ができるような気がする。
 それが、お茶と私たちの自然な関係かと思う。

蜂楽饅頭の写真 今回の「いっぴん」、いつも行列が出来ていて、いつか食べてみたいと思っていた、私にとっては念願かなったものである。
 福岡・阪急百貨店に行くたびに、地下の入り口前に、小さな店があり、そこに行列ができている。いつもできていて、けっこう長い期間、継続している。
 よくあることなので、あまり興味を持たなかった。長期間の空白をおいて、次に福岡を訪ねても、行列は続いている。
 遠目に見ているので、そして店の間口も狭いので、じつは何を売っている店かわからなかった。
 ある時、近づいてみて、それが「今川焼」であることが判明した。
 でも、全国、どこでも、「今川焼」や「たい焼き」には、行列はつきものだ。そんな思いもあって、買わなかった。
 次の福岡、その次の福岡、その行列は、いつ行っても並んでいる。一度、買ってみよう、と思ったが、今度は、行列して待つ時間がなく、買うことができない状態が続いた。
 そして、今回、夕食が終わって、遅めの時間、行列の人数は4人ほどだったので、並んで買った。
 黒餡と白餡の2種類のみ。店員の人が手際よく、行列をさばいていて、気持ちよかった。
 食べて、行列が、長い期間途絶えないわけがわかった。
おいしいのだ。掛値なしに、おいしい。値段は100円。十分以上の価値がある。
「蜂楽饅頭」。これでは、関東の感覚でいうと、「今川焼」と想像しにくい。
 名前にあるとおり、蜂蜜が餡に使われている。調べると、水俣にある蜂蜜屋さんが、始めた今川焼だ。餡がおいしい。
 また、福岡で食べなくてはならないものが、増えた。

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