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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2017年8月15日

「おいしくいれる」「魅力的にいれる」をどう伝えるか

――「公開レッスン」の企画は、通るだろうか


「どのくらいの人に、お茶をいれることを教えてきたろうか?」
 いつものように、大阪に行く新幹線の中で、この原稿を書きながら、思いを巡らせた。

東京で年一回開かれる日本最大の中国茶イベント、通称「エコ茶会」で、2回前から、セミナーでの講演を、お断りしてきた。
 理由は、もう「私たちの時代ではないでしょう」、という思いからである。

 ご依頼いただくのは、ありがたいことだが、いつまでも同じ顔ぶれで、講演などやっていては、次の時代を牽引する人がいなくなってしまう。育たなくなってしまう。
 講演までいかなくても、人前でお話しするには、その内容に対する評価は分かれるとしても、「来てよかった」と思っていただくことが、よいに決まっている。
 人に影響を与えるとか、そんなことよりも、「また顔を見に行きたい」と思っていただける「何か」がないと、お金をいただいてお話しするには、ちょっと気がひける。

 人前でお茶をいれることもそうだが、誰も最初から納得がいくように、お茶をいれられる人などいない。いくら家で練習していっても、人に向かうと、状況は一変するのだ。
 仕事でも、どんなことでもそうだろうが、on the job trainingが必要で、「経験を重ねる」ことである。「場数を踏む」ことが必要である。
 そして、「経験」や「場」あるいは「器」が人を創っていく。

 次の世代を牽引する人が、その「経験」、「場」をいつまでも持てないのであれば、魅力ある人材は育ってはいかない。登場の機会を失うことがあってはいけない。とくに「エコ茶会」は、そういう要素を、スタートの基本の一つにしていたのであるから、なおさらである。
 そんな思いで、数年前からやっと納得いただいて、セミナーでの講演をお断りした。

 ところが、今年、「エコ茶会」は、10月7日、8日と、東京で開かれるが、色々の事情から、どうしてもそこでセミナーの一枠を、担当しなければならなくなった。ちょっと迷惑をかけたことの穴埋めである。

 主催者は、もうそろそろ内容を発表し、参加の募集に向かわなくてはならない。
 いろいろ考えた。
 歳をとるに従って、ということは、中国茶との付き合いが長くなるに従って、中国茶の知識や歴史、情報やあり方論など、ないよりはあった方がよいに決まっているが、必ずしも「必要はない」、と思うようになってきた。
 もともと、知識がない、というより、勉強することが嫌いなこともある。
 学んでも、勉強しても、「お茶をいれる」ことに役立つことが、見つからないせいもある。

 私にとっての中国茶は、「中国茶をいれる」あるいは「中国茶を飲む」こと。それに尽きる。
「おいしい」とか「ほっとする」とかいう、ごく日常的な感動があったり、人と会えることがあったり、同じ感動を共有することに喜びを感じたり、というものである。
 そういう思いが、歳をとったせいか、次第に強くなってきた。

 もっと簡単に言えば、歴史を知らなくても、知識がなくても、おいしいお茶をいれることができるし、お茶を楽しみながら飲むこともできる。

 でも、日本の今は、とくに知識偏重型にできている。
 けれども、人は「歴史に学ぶ」必要性を謳いながら、「歴史は繰り返される」過ちを、繰り返している。未来はますます絶望的である。

 私の中国茶は、ずっと周囲の歩みとは違っていたのかもしれない。「おいしいお茶」「魅力あるお茶」をいかにいれるか、飲むか。それが、歴史を知っていること、道具を金額で説明すること、お茶の知識をとうとうと論じることなどより、ずっと大切なことだ、とますます思うようになってきた。
 お茶をきっかけにして、友と会えること、あるいは同じ感動を持つ人を見つけられることの方が、ずっと大事なことだし、評価されることだ、と思うのだ。

 と、思いを巡らせながら、私が「エコ茶会」で出来ることを考えていた。どうやら、「お茶をいれること」を教えること、それを示すことが、皆さんに役立つ、あるいは気づきをもたらすことではないか、と考えた。
 そして、冒頭にある「今まで何人くらいの人に、お茶をいれることをしてきただろうか」と、ふと考えた。25年近くにわたって、正確な数はわからない。でも、延べ人数でいったら、1万人を超えるくらいにはなるだろう。
 東京のサロンで、大阪の教室で、その他、色々の機会に教えてきた。
 今だったら、もっと的確に、上手に教えることができるのに、と思うことも多い。学ばせてもらったのは、私だったのだ。反省しきりである。

 ということで、「いれ方を教えること」の、行き着いたものを、皆さんに伝えようと思った。
 どうしたら、伝えられるか、伝わりやすいのか。企画の形にしたのは、「公開レッスン」である。
 実際に教えるところを、見てもらおう。その中で、教えること、そして教えることで起きる変化を、見てもらう、体験してもらうのが、少しでも多くの人に伝えることではないか、と思った。

 簡単な企画にまとめて提出した。もしこの企画が通れば、久しぶりの一般募集の「お茶いれ方レッスン」になる。

 10月8日。「エコ茶会」で。
 企画が通ったら、興味のあられる方は、見に来てください。必ず、「おいしくいれる」「魅力的にいれる」ことへのヒントを見ることができます。

温室みかんの写真 今回の「いっぴん」は、またまた「和歌山」の驚きである。
 写真で見ていただくと、「こんな季節にミカン?」と思われるだろう。
 送ってくださる人がいて、食べてびっくりした。「有田の温室ミカン」である。

 今までも、果物屋さんの店頭で、この季節になると、「佐賀」「大分」「愛媛」「高知」「愛知」などなど、いろいろのところの「温室ミカン」「ハウスミカン」が、店頭に並ぶのは見ていた。
 ミカンは冬の食べ物なのに、と疑問に思っていた。買って食べてみればよいのだが、値段を見て、引いてしまうほど、高い印象があった。買わなかった。

 ところが、これは、まだ食べたことのない人は、一度食べてみた方がよい。世の中に、こんなに甘いミカンが存在するのだ、という経験をするのは、損はない。
 ただ甘さが凝縮しているだけではない。喉越しがよい、ジューシーさも兼ね備えている。
 一個食べて、大満足。でも、数個食べても、大丈夫。
 騙されたと思って試す価値あり、と思った。
 もちろん、それほどでもない「温室ミカン」も存在するだろう。また、酸味が強いミカンを好きな人には、これは向かないだろう。
 運良くおいしいのに当たったら、人生生きてきてよかった、と思える幸せ感も、またよい。

 知り合いの和歌山の人が、以前に言っていたことを思い出した。その時は、聞き流したが、食通の父上が、夏は毎日「温室ミカン」を食べている、と言っていたことがあった。
 その父上の気持ちが、今、理解できた。
 毎日、感動しながら、驚きながら「有田の温室ミカン」を食べている。

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